

そもそも学徒隊とは、政府命令で女学生に対して動員の声がかかり、沖縄決戦に向けて負傷した兵隊などの看護を任ぜようと「ひめゆり隊222人」を含めて、沖縄の在住の女学生に白羽の矢が立ったのだ。「ひめゆり学徒隊」が看護活動を行っていた最後の場所は、校歌にも歌われているように「波の上のほこらおごそかに」と、学徒達が掘ったほこらで救護活動をしていたのだ。


部隊が最後のほこらに移動して来た6月には、沖縄地上戦の戦況が激化し、医薬品や食糧も底をつく絶望のなか、看護役を任命されていた「ひめゆり学徒隊」に、突如軍より解散命令が下された。彼女達が脱出する直前には米軍無差別攻撃で、兵士や学徒の多くが死亡した。ひめゆりの塔は、第三外科壕の上に建てられているので、下を見れば中が見え、泥や雨や砲弾にさらされながら穴ぐら生活するのは想像を絶するものがあったばかりか、生き残った者も海岸へと追い込まれ自決したという。その理由は軍部の「生きて辱めを受けるな!」的な思想が、多数の犠牲者を出す原因となったようだ。ひめゆり部隊の犠牲者194人のうち解散後の死者が128人と、軍部の勝手な精神論が多数の犠牲者を出す原因となったようだ。

塔とは名ばかりで、実物の高さは数10cmと高くないのは、終戦直後の物資難と米軍統治下に遠慮した事情によるものだ。塔の横には「ひめゆり平和祈念資料館」があり、生き残った女性が貴重な証言を聞かせてくれたり、展示物の遺品を見るだけで涙が流れ落ちる……撮影禁止なのでお見せできないが、それらに涙しない人は少ないし「女性も戦った」というポジションではなく、日本軍が沖縄を捨て石にしたことが浮き彫りにされた記念館であった。■合掌

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この地を訪れて、戦没者慰霊で訪問したいところは、残すところ鹿児島県南九州市にある「知覧特攻平和会館」のみとなった。太平洋戦争末期の沖縄戦において、爆装した飛行機もろとも敵艦に体当たり攻撃を敢行した「特攻隊員」の聖地であるから。なお、近所にヤギ汁で有名なお店があったようだが、ひめゆり学徒隊の慰霊後には失礼だと考え、お腹をすかせて次の観光地へと向かった。